受精について

生きてきた中で 想定外のことはたくさんありました。
(彼氏が包茎手術をしたり 彼氏だと思ってた人が彼氏じゃなかったり) だけど、妊娠から始まったすべてのことは、今までの何よりも想定外のことばかりでした。

すべては2013年6月にさかのぼります。
6月中旬、キャンプ場で結婚式を挙げた私たち夫婦は、そのまま新婚旅行のためフランスに向かう事になりました。わたしにとってそれは想定内だったけど、旦那さんにとっては有給を勝手に取られている事も、新婚旅行があることも想定外だったので、彼はまさに「身ひとつ」でフランスに向かう事になりました。

しかしここからは私も想定外、南フランス ニースにて即受精となりました。
あまりにも普段通りだったため、当時はまったく気がつかず、写真で振り返ってみても受精前と受精後には大きな変化もありません。(マガジン表紙が受精前、このノート表紙写真が受精後)

受精とはもっと、受精!!という感じの別物かと思っていましたが、そうではありませんでした。

一瞬だけ、受精直後に症状がでます。受精1日後(フランス新婚旅行2日目)、お世話になっている方がニースの超絶なレストランを予約して下さり、テレビでもみる超絶シェフ本人があいさつと解説をしてくれました。その興奮が原因かと思ってましたが、そのとき急に発熱、めまいのようになったのです。今考えるとこれは受精症状のはじまりだったのかもしれません。

これが私の受精付近の記録ですが、受精旅行が引き起こした想定外はここで終わりませんでした。
受精3日後(フランス新婚旅行4日目 帰国前日)、旦那さんと向かい合ってサンドイッチを食べていた私は、知らないうちにiPhone・財布・mac・パスポートなど、日常生活で必要なすべてが入ったカバンをまるごと盗まれました。
港町のカフェのどまんなかで気付き、叫び、狂い、なにもかもを理解した私はあのとき、旦那さんでなく私が、身ひとつとなったわと思っていたあのとき、なんて想定外!と思っていたあのとき、なんとサプライズ想定外、すでに身はふたつだったのです、

そんな想定外重なる妊娠記録、こんなものはまだ、はじまりにすぎませんでした

子供を1年育てて、人類が初めてわかったこと

息子が1歳になった。

 

いざ「子供がいる」という状況はただ「子供がそこにいる」という事とは
まったく違っていて、自分の人生そのものに子供がいるということ(思考や喜びや重大や心配や希望や感情や視界ひとつひとつ隅々にまで)で、

いざ「母になる」ということは「母という職業に就く」という事とは
まったく違っていて、母という動物としての自分になることだった。

それはサケが産卵期に川をのぼる本能に逆らって
「私は子を産みたいけど 、でも川を上らずここにいたい!」という
自分本位をねじ込む事が不可能なように   

人も、
動物としての母として出産して
動物としての母として乳を与え子を愛し守り夜中に乳を与え身の回りをきれいにし食べ物を与え鳴き声で気持ちを感じ愛情を注ぎつづけ育てる中に
その本能をじゃまするものを入り込ませる事はできない。

だから 「自分がどうしても個人的にしたいこと!」をする時間は当然減る。サケはそれに疑問を感じない。一方人間は急に減る自分時間に戸惑う。
「どうして旦那だけ飲み会いくの」「美容院ずっといけてない」「たまにはひとりででかけたい」「辛い!」いいねいいねいいね!等。

なぜなら
人間は普段あまりにも動物であることから離れて生活しているから、産んだ瞬間、突然はじまった動物としての時間についていけなくて戸惑うのだ。

私たちは動物。私たちは動物。子供を産んでない人も動物。
私たちはチンパンジー亜族の姉妹群であるヒト亜族である。

それが母親になってみないとわからないことだった。

とはいえ、
私は明日も車を運転してJwaveを聞いてfacebookのアプリを立ち上げて
何かにいいねする。それでも動物だから子に乳をあげて食べ物を与え体を洗い眠らせて常に目を向けて危険から守り愛情を注ぎつづける。
母親というのは「自分の時間がない人」じゃなくて「動物の時間がある人」なだけだから 減った時間に目を向けず増えた動物時間に目を向ければ 
  

ほとんどの子育て炎上記事は解決!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


100%のメンヘラだったのにそこから抜け出して完全なるきらきらリア充になれた理由を分析してみた

私がどのくらいメンヘラだったかというと
全身黒い服で軽音楽部でアシンメトリーで彼氏に会えないと絶望して泣いてリスカで気を引いてきれて私のこと好き?嫌いになった?まだ好き?ほんと?本当に?を一日何十回も確認しても不安でメール送りまくって電話しまくってでも会えないと不安で結果20時間くらい一緒に過ごすことになりすぐに飽和状態になりそんな自分に自暴自棄になりブログにリスカしたって書いては心配されたことを確認してずっとそばにいるからと言われたいがために過呼吸になって他に好きな人ができたり大失恋をして激痩せしたりわざと吐いたりそれを小説に綴ったりブログに書いたり歌詞にしたり長いバンド名をつけたり椎名林檎のファンクラブ入ってるくらいにはメンヘラだった。



だけどいまどれくらいメンヘラじゃないかというと
自分が「メンヘラでした!」とメンヘラな理由をnoteに書けるくらいにもう私はメンヘラを卒業している。



あの頃私はほとんどのメンヘラがそうであるように
自分がいわゆるメンヘラだとまったく気づいていなかったのだった。ただただ自分の事を、【人とは違う感情豊かで愛情に溢れて寂しがりやで繊細で感性が豊かすぎて可愛くて放っておけない19歳】だと思っていたのだった。
これはほぼ「登山」と「遭難」が【「山にいる」という点でほぼ変わらないにもかかわらず決定的に違う。】という事実にかなり似ている。ただ山を登っているだけで気づいたら樹海に入っていて気づいたらこんな風にこんなところで遭難していたのか!ということは、だいたい脱出したあとヘリコプターの上からしかその全貌はわからない。もしかして遭難してないかもしれないここは樹海でないかもしれないわたしは迷っていないかもしれないここは正規ルートかもしれない。それと同じでリア充大学生とメンヘラ大学生は【「大学にいる」という点でほぼ変わらないにもかかわらず決定的に違う。】のである。それはあまりにも、田中康夫と道端ジェシカくらいにもはや別物なのである。


そして
そんな私がなぜ今、
コピーライターやCMプランナーをしながら汐留の広告代理店勤務の夫と結婚し新婚旅行のフランスで懐妊し第一子をもうけ夫の車で買い物や旅行に行き花の再生プロジェクトの代表をしながらラジオに出演したりトークゲストとして呼ばれたりという100%リア充、まさに地球の反対側のようなリア充、になったのか、というおとぎばなしについての話である。






私がしたことは

【一年間 精神統一をする】

という修行であった。


リアル精神と時の部屋をつくりあげたのである。
2007年のことだった。



その頃の私は、先述の通り生粋のメンヘラ、
メンヘラの中のメンヘラ、痛いというよりはもうほぼ激痛、歌手になりたいと言い出して大学を辞める!と言ったり劇団四季に入る!といって劇団のオーディションを受けたりするほどに完全なる迷走系メンヘラ日本代表だったのだが、そこに加え、大失恋につぐ失恋、
もともとの【迷わず、人の携帯を見る!!】という癖も相まって、失恋の相談をしていた友達がその彼とにゃんにゃんしていたり、自分が彼女と思っていたのに実は浮気相手だった事がわかったり、まさに【どん底】だったのである。あまりにも傷つき過ぎ中身をすわれきったフキのように萎びた繊維だけだった私はもはや泣きすぎて意識もほぼ毎日朦朧とするなか薄々ここが樹海なのではとうっすら予感する。そしてそれがとんでもなく大きくて抜け出しにくいところなのでは?全貌はわからないけど明らかになんか靄かかってる感。そんななか、どん底が一周回って
フキとして限りなく「無」に近い状態になった私は、
【私は、何を「禁止」したらここから抜け出せるのか】
と考えるようになり、樹海大脱出大計画をはじめるのであった。

その矢先、2007年春、いまの夫にであうことになる。


彼はいままで付き合った誰ともまったく違う人だった。
まず隅々までまとも。まっすぐ良い人すぎ頼れるぶれないつつみこまれたい系、中身は海猿大泉洋。私たちは就職活動の面接で出会ったのだけど
「あーこういうひとは、まじちゃんとしたロングヘアーの人と付き合うんだろうなー」と絶望しながら見た彼の姿がいまも脳裏にやきついている。



それなのに私の第六感は私に
「これがまじ私の最初で最後のチャンス」と言ってきたのである。



たった1度の最後のチャンス感、広瀬香美感は私の中で強く発光した。作戦を決行する時だと思った。【何】を禁止したらここから抜け出せるのか?
その答えは、【感情の爆発】だと気づいたのだった。

それまでの私は、付き合って一ヶ月半もすればメンヘラが溢れ出し大爆発、もう取り返しのつかないことになりただリスカ号泣、深夜の海、椎名林檎の悪循環連鎖。なんとか爆発を阻止しなくてはと思っていたなか
幸運なことに私たちは東京都と名古屋の【遠距離恋愛】をスタートさせたのであった。はからずともその距離は、爆発に、時差をうんでくれたのだった。

私は【一年間感情を表に出さない】ということを決めた。
爆発させそうになってもメールしない、電話もしない、一年がんばろ、一年がんばろ、脱出、脱出、脱出、と言い聞かせ、爆発しそうになったらノートに書いて、将来結婚したらそのノートを彼にプレゼントしよう。と思った。彼の事が好きすぎたがそれは爆発気配があるすべては水面下に。
私は凪いだ海。葉山の別荘。薄い紅茶。「会いにきちゃったと泣きながら言う為には新幹線に乗らないと行けない距離」最高、である。



そうして
【彼は騙されたのだった。】


それどころか
【私も騙されたのだった。】
彼にではない。自分自身にである。


私は私の感情を一階層下に沈める修行で
自分自身の感情を騙しきった。
まるで取り憑いていた霊が外に出て行くように、メンヘラが、
「この人、メンヘラの居場所じゃなかったのかも」と言わんばかりするりと私から出て行ったのである。

つまり大事な事は

【遠距離な相手と恋愛する。】
【期間を決めて、感情を出さない修行をする】
【自分を小説の主人公だと思ってそれを守りきる】





これでOK~




さよなら、わたしの黄金時代。


サーフィスという日本代表選手が起こした奇跡

週末、私の人生においてとても大きな出来事がありました。

あまりにも動揺して感情の説明がつかなかったけどあまりにも重要で巨大な事だったので長くなりますが気持ちを記しておきたいと思いました。



私がサーフィスに出会ったのは14歳の時で、
ラジオで流れていた曲に衝撃を受け記憶している歌詞を断片的に母に伝え借りてきてもらいのめりこみました。ファンクラブに入り、その後 愛しすぎるゆえに握手会では まともな日本語が使えなくなったり、新幹線のホームで待ち伏せをする時は何を渡していいか混乱しすぎて一周まわって当時事件になっていた赤福を渡したり、出産前には握手会で安産祈願もしてもらいました。

サーフィスは運のいいユニットでした。
学祭で歌っていた椎名さんにタカオ君が声をかけてバンドを組み、オーディションでスカウトされた二人のデビュー曲はいきなりショムニの主題歌になりその後も出す曲出す曲タイアップが決まり、笑っていいともでは21世紀最初のゲストになったりもしました。

そんなサーフィスはだんだん売れなくなり、
2010年に解散、それから椎名さんはソロで活動を続けていました。

普通のスーパーやイオンでライブをする事も増え、「ショムニの主題歌とか歌ってたサーフィスの1人ですよー」と自虐的に宣伝しながらも楽しそうで、ライブではサーフィスの曲を演奏しながら、だんだん箱も小さくなりながら、ソロ活動をはじめて今年で5年が経ち、オリコンなどにはサーフィスも椎名さんの名前も、見る事はできなくなっていました。


そんな折
忘れもしない5日前、
私の夢にサーフィスが出てきました。

愛しすぎているので夢ですら会えることも滅多になく、それはファンイベントの最中で、私がたかおくんと椎名さんと3人で川下りをしながら交流する夢で、緊張しすぎてハッと目が覚めてからも「ああ私は夢の中ですら椎名さんとまともに話せなかった、、、」「もっとあの場面ではああいう話をすべきだった、、」と後悔するという現象が起きていました。サーフィスが夢にでてきた事自体に一日中動揺していましたが、その夢は、大きなすべての前触れだったのです。

私が記念すべき「サーフィスの夢」を見たまさにその夜、「それ」は起きました。あろうことか私はそれをリアルタイムでは見ておらず後からtwitterで知る事になったのですが、それは過去最高の視聴率となったキングオブコント2015の、最も注目された、決勝戦で起きました。決勝戦、コロコロチキチキペッパーズというコンビのネタは、今流行の歌もの、替え歌、などではなく、なんと「本物のサーフィスの曲が全編流れ、それにあわせて卓球をする」というまさに誰得なもので、それがさらになんと優勝して、youtubeが曇って歪んで視界が狭くなって何かが頬に垂れ続け笑えてきて、でも一瞬冷静になってもはやこれサーフィスファンじゃない人はどうやって盛り上がるの?!なんなの?審査員は全員サーフィスが好きなの?もしくは1985年生まれなの?もしくはこのタイミングでものすごい権力が働いたの?!だったらそれ解散するまえに使って?!という、とにかく「キングオブコントの優勝ネタでサーフィスの曲が全編流れる」という事件としか言えないことが起きたのです。そこから派生した影響は想像を超えていました。


私は、今回のラグビー日本代表の功績がどのくらいすごい事かをきちんとわかっていません。web上では「草野球チームが阪神に勝つくらい」等とも言われているそうで、ラグビーを愛する人たちは驚き喜び讃えているかと思うのですが、

なんということか、
もう何年も日の目を浴びていなかった、そして売れてるときも売れなくなってからも同じようにファンを大切にしながら、一人一人と握手会で話してハグしながらライブではたかおくんが隣にもう居ないのにサーフィスの曲を歌ったりMCでは「サーフィスまたやりたい」と素直に言いながら、いつも笑いながら、でも全然忘れ去られてしまっていた、椎名さんが歌った、あの名曲、サーフィスの「さぁ」はなんと、キングオブコントの影響で、ネタの内容以上に注目を集め i-tunesチャートで現在この2015年において、
あろうことか圏外から西野カナサカナクションゲスの極み乙女と並び
セカオワをおさえて10位、7位と急上昇し【itunes 現在6位】に現れ
サーフィスという言葉はツイッターのトレンドに入りあらゆるニュースサイトに名を載せたのです。



サーフィスは、サムシングエルスではありません。
サーフィスは、B'zのぱくりではありません。
サーフィスは、あの人は今ではありません。



この人は今
五郎丸選手のように、変わらないポーズでシュートを決めるようにマイクを持ち同じところの歌詞を間違えながらもひとつの夢を歌い続けて走り続け挑み続けて未来を見続けているのです。ただのラッキーで一瞬チャートに入ったけどまた消えるだけかもしれない。でももはや解散前からどんどん売れなくなってほとんどこの10年間ずっと悔しい思いをしてきて試合に勝てなくて勝てなくて何をやってもどうしても勝てなくて全然うまくいかなくて勝てなくて、諦めたくなくて、時代だけは過ぎて、でもそれにちゃんと向き合って、立ち向かって、戦って戦って戦って、やっと、一回、大変なまぐれでも、勝てたような気がしたのです。




一回の勝利を私は、なぜか不思議とつなげていってしまうサーフィスしか知らない。1985年生まれのみなさん、それ以外の皆さん、いまこそ立ち上がりyoutubeを立ち上げサーフィス熱をブチあげましょう  さぁ
これな↘︎
https://www.youtube.com/watch?v=8VD0lVjrKzQ